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【サンツアーの全て】

その1 「前田工業 1」

前田工業自身自転車部品のメーカーとしてフリーホイールを作っていたそうです、そこに岩井製作所のノウハウが加わりさらにパンタグラフ式変速機(ローマオリンピックでイタリアチームが使った方式・もちろんカンパニョロ社のグランスポーツ)はフランス「ユーレー社」との業務提携でズベルトのノックダウン生産を行うことでノウハウを得たようです。(このあたりの詳細は知るよしも有りません、詳しい方がいらっしゃると思います、どうぞ寄与してください。)

東京オリンピックに向けて部品メーカー各社が本格的な競技用専用部品の開発を開始したのが昭和37−38年です、このころまでにヨーロッパの変速機メーカー各社はスライドシャフト式からパンタグラフ式への移行を完了しユーレー・サンプレックス・アルテンバーガーなどから続々と新製品が発表されていました、日本メーカーではサンコー舎から変速機「プロキオン」が杉野から軽合金クランク「マイティファイブ」(確かコッタレスシステム)が、スイス・ワインマン(バイマン)社と提携した吉貝からは高性能軽合金ブレーキが発表されました。

サンツアー・前田工業はフリーホイールに5段ボスタイプを出した様に記憶していますが時期が違っているかも知れません。

変速機にはパンタグラフ式のニュースキッター(ローノーマル)が登場、当時は変速機が無いのが普通なのでエンドの形式が今の実用車と同じ真後ろに開口している車に取り付ける為アダプタが二種類用意されていました。この時すでにスラントパンタシステム(フリーの歯の稜線に傾きを合わせて、斜めに動く)なのです。スキッターシリーズは一世を風靡しベストセラーになりました、そのため細かい改修が続き年代によって細部が異なっていました。

東京オリンピックは日本に様々な波紋をのこしました。高速道路、新幹線、宇宙中継、カラーテレビジョン東洋の魔女、体操ニッポン、君原がんばれそして自転車にロードレースと言う競技が有るということ。

当時自転車競技と言えば 競輪 ケイリン keirin しか知られていませんでした、ところがロードレースコースになった八王子周辺ではオリンピック後ロードレーサーが売れるようになったそうです、それまで誰も知らなかったロードレーサーを実際に見て感激した人々が、普通の人々がレーサーに乗るようになったのです。

しかしサイクリングブームは終焉してしまったのです。高度経済成長の象徴としての自動車産業が嫉妬したため地方自治体主催のサイクリング大会が無くなってしまった事と、自家用車がセコハン(セコンドハンドの日本語訳)なら買える価格になってきたためです。

ブームは終わったとはいえ昭和40年代に入るとスポーツ車には必ず変速機が装備されるようになり、当然技術競争が始まるのでした。

その2に続く


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